恒産なき者は恒心なし

2026-03-23
それは周の赧王の八年頃のことと思われる。孟子はその理想である王道の政治を説いて諸国をめぐり歩いたが、いずれの国でも意見が容れられぬために、郷里の鄒(山東省鄒県)に帰っていた。すでに六十歳をだいぶ越していた。その頃滕(山東省滕県)という小国では定公が薨じ、その子の文公が即位したばかりであった。文公はかねがね孟子に私淑していたので、孟子を招いて政治の顧問とした。文公はさっそくいかに国を治めたらよいかをたずねた。孟子も文公の情熱に感じてここに堂々と彼の見解を述べたが、これが有名な井田説である。

  次にその要旨を伝えよう。

  「詩経」の中に、「春は種まきなどで忙しいから、冬の間に家屋の修理を急げ」と戒めた詩があるが、国政もまず民衆の経済生活の安定から始まる。恒産つまり一定の生業と、恒心つまり変らぬ節操との関係は、「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」である。恒心がないと、どんな悪いことでもする。民衆が罪に落ちてから罰するのでは、法の捕網にかけるようなものだ。

  昔夏は一人に五十畝、殷は一人に七十畝、周は百畝の田を与えて、その十分の一を租税としていた。夏の法は貢法と言い、数年間の平均収入を見て一定額を納めさせたが、豊年にはあり余り、凶年には足りなくても取るという欠点があった。殷の法は助法と言い、私有の田と公田にわけ、公田からの収穫を納めさせた。周の法は徹法と言うが、助法を受け継いでいる点を考えると、助法こそ模範とすべきであろう。

  こうして孟子は「恒産」を具体化したあと、「恒心」として学校における道徳教育を強調している。続いて文公は臣下の畢戦に井田法について質問させたことが見えるが、ここで孟子は助法を更に明確に説いている。

  一体国家は君子(治者)と野人(被治者)より成立するが、その体制を維持するにはまず君子の祿位の世襲制を認めるべきである。野人の方は助法による九分の一税を確立する。そのため一里四方の土地を井字型に区分し、九百畝のまん中に百畝の公田をとり、残りの八百畝は八軒の家でそれぞれ百畝ずつ私有する。公田の共同作業が終ってから自分の田の方にとりかかる。民衆は相互扶助の体制ができ上がるので、土地を離れたりしなくなるだろう。

  以上によって明らかなことは、この井田法は原始共産的なものであったろうということである。しかしその前提として治者と被治者を区別する主張は、後世の支配階級に孟子が担がれたの理由となっている。

  「恒産なき者は恒心なし」は「孟子」の?滕文公篇?にある、以上の話に出ているが、?梁恵王篇?にも出てくる。「倉稟実ちて礼節を知る」のように、孔?孟の主張が単なる修身ではなかったことを告げている。